本作の原題『寧化飛灰(Rather be Ashes than Dust)』は「塵として朽ちるよりも、灰となっても燃え尽きる方がいい」という意味を持つ。これは、人生を無為に過ごすよりも、短くとも激しく生きるという覚悟を表している。
2014年の雨傘運動に続き、2019年、香港で民主化を求める抗議運動が燎原の火ように広がった。犯罪容疑者の中国本土引き渡しを可能にする逃亡犯条例改正案に反対するデモを発端にして、参加者たちは「逃亡犯条例改正案の完全撤回」、「普通選挙の導入」など五大要求を掲げ、6月16日には、香港の人口の3割を占める約200万人(主催側発表)に膨れ上がった。香港の司法の独立性が失われ、一国二制度が崩壊することに危機感が高まり、立ち上がった市民と警察との衝突は日を追うごとに激しさを増していった。催涙弾の煙が立ち込める路上、飛び交うゴム弾、火炎瓶の炎……。この抗議運動の最前線で本作監督のアラン・ラウはフリーのジャーナリストとしてカメラを回した。香港の若い世代の勇敢さと恐れを知らない心、対する香港警察当局の冷酷さと残虐性を記録した。
アランは日本でも公開されたドキュメンタリー映画『時代革命』では撮影監督も務め、多くの香港民主化運動を伝えるドキュメンタリー映画にも関わっている。混乱と暴力が渦巻く現場を撮影する中で、「ジャーナリストは客観的であり続けるべきなのか?どのような行動をするべきなのか?」というジレンマに直面した。本作『灰となっても』には、香港の人々が否応もなく分断され、罪悪感に苛まれる姿、怒号が渦巻く路上、あの時のありのままの香港が映し出されている。私たちは時間を遡り、壮絶な現場でカメラを回しているジャーナリストたちが何を見て、何を感じていたのかを体験することになるだろう。変わりゆく香港を世界に伝えることができるのか、その確信と疑念に引き裂かれながら、アラン監督は2021年まで撮影を続けた。1000時間以上の映像から制作された本作は、ニュース報道だけでは伝えるのが難しい、現場の生々しい衝撃を突き付けてくる。
香港で反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」が施行されてから2025年6月30日で5年、これまでに法律を補完する新たな条例も施行され、香港社会では言論に対する締めつけがさらに強まっている。逮捕者は300人以上にのぼり、香港を離れる人々も増え、アランも故郷である香港を離れた。「香港で何が起こったのか、そして香港の今後はどうなるのか知ってもらいたい」とアランは語る。痛ましいほど若い香港の抗議活動家たちの物語が灰となっても、消えることのないように。本作は今では自由に発言することができない香港の人々の闘いの記録でもある。香港市民の烈火のような自由と民主に対する熱望が込められている。この事実は決して消えることはない。
香港出身の映画監督で20年近く映画業界に携わっており、ドキュメンタリー、テレビシリーズ、短編映画、長編映画を制作してきた。2010年、四川大地震の孤児たちを特集したドキュメンタリー「I Want Home」を撮影、2015年にはテレビドラマ「Red Cotton」を監督し、「Radio Television Hong Kong」と「TVB」で放映され、台湾の金馬奨とシカゴ国際映画テレビ祭にノミネートされた。長編映画デビュー作『キューブ・ファントム』(2020年)は社会運動や個人の政治的立場の問題を探求した作品で、ロッテルダム国際映画祭に選出。カンヌ国際映画祭とサンダンス映画祭にも招待された『時代革命(Revolution of Our Times)』(2021年)、『Denise Ho: Becoming the Song』など、香港の民主化運動を伝えるいくつかのドキュメンタリーでは撮影監督としても活躍した。2019年当時、香港民主化デモの現場のすぐ近くに住んでおり、数多くの出来事を目撃し、そのすべての瞬間をフィルムに収めようと撮影を続けた。本作は香港の抗議運動を中心とした4年間の旅の回想録である。2019年、香港の路上での激しく情熱的な日々への痛切な別れであり、魂を失った香港への悲しみに満ちた弔辞でもある。
本作は、デモを撮影するジャーナリストたちの内なる葛藤を映し出しています。これまで議論されなかった現地のジャーナリストにとって非常に重要な問題に着目したいと思いました。政府が明らかに真実を隠し、国家による市民への暴力が常軌を逸しているとき、ジャーナリストの役割とは何でしょうか?
そしてこの映画は、現在香港に住み、自由に表現できない人々のためのものであり、彼らの証言でもあります。全体主義的な政府が私たちの家や表現の自由を奪っても、私たちの誇りや歴史を奪うことはできません。そして何よりも、私たちの存在、戦う意味を消すことはできないのです。
地球上で最も開かれ自由な街は永遠に失われた。この映画は香港人の「最後の抵抗」を追った貴重な記録だ。アラン・ラウ監督の映像からは警察側の圧倒的な暴力に対する怒りと怯えが鮮明に伝わってくる。しかし映画の底流にあるのは静かな悲しみだ。二度と帰ってこない「香港」に対する諦念だ。空気のように当たり前に謳歌していた自由は驚くほど儚い。この映画は僕にその事実を突きつけてくる。
剥き出しの国家権力をリアルに感じるのは、司法と戦争だ。それは、あらゆるものを破壊する、肉体も精神も、その暴力を目にする全ての者たちを。強大な力に抗う人々の団結と勇気は痛ましくも美しい。しかし忘れてはならない。その美しさはあくまでも傍観者である「観客」のものでしかない。抗う人にあるのは、絶望と地獄と希望だ。国家権力が恐ろしいのは、実はそれを作り支えているのが、私たち一人一人だということだ。
警察を憎むのは簡単だ。その背後にいる中国政府を嫌悪するのも容易い。でも、だからこそ「なぜ? なぜ香港はこうなったんだ?」という重い問いを、どうか最後まで抱え続けて欲しい。その答えは、たぶんとても残酷なものになるだろう。作中には、さまざまな叫び声が記録されている。怒り、嘆き、哀しみ、あるいは命乞いにも似たそれらの咆哮は、一つの時代が終わらんとする香港の今際の声だったのかもしれない。
映像は激しく揺れている。それは記者もまた、この激動の歴史の中を、抑圧に屈しない人々と、ともに走り、ともに闘うからだ。だがその日々には、あまりにも大きな代償も伴う。それでも、記録はつづけられる。記録が記憶になるためには、多くの人が必要だ。あなたも目撃することで、この歴史を記憶しつづけてほしい。記憶は、過去のものではなく、現在進行形なのだ。
私も記者として、この映画に登場したいくつかの現場を知っている。防護マスク越しに感じた催涙ガスのにおい、目の痛み、火炎瓶の熱さ、警官に骨を折られる抵抗者の悲鳴。レトロフィルム風の褪せた色調だからこそ、脳内では極彩色の記憶でよみがえる。燃え尽きるように香港のために戦い続けた香港人、それを懊悩しながら追い続けた香港人ジャーナリスト。灰となっても、発火しそうなほど熱い自由への希求に共感しかない。
あの時、あの現場にいたジャーナリストたちは、一人ひとりが目撃者であり、当事者でもあった。客観と主観。警察の暴力への怒りと過激化するデモ隊への戸惑い。その狭間にあるものすべてが、本作の描き出す『失われた香港』のリアリティなのである。
香港の民主主義を守る運動が失敗するのは残念ながら目に見えていました。しかし、一度味わった自由を奪われることを許せない気持ちは人間誰でも共通なので、だめだと分かっていながらも応援せずにはいられません。
2020年の国家安全維持法に続き、2024年に反乱や外国勢力の干渉を取り締まる「国家安全条例案」が施行された香港。今も多くの人が刑務所に収監され、トラウマに苦しんでいる。
そして、監視や通報を恐れる人たちにとって、自己検閲は日常になっている。しかし、葛藤し続けながらも闘い続けた人たちの記憶を決して消すことはない。これは、傷だらけの香港を愛する香港の人たちの記録。そこには、未来に向けて強く生きるための多くのヒントが隠されている。
国家が自国の市民に暴力を振るい、メディアを制限し、民主主義が崩れていく過程を命懸けで記録した映像によって、これが隣国で6年前に起きたことだと温度感を持って知る。
「国家の安全を守るため」と掲げた警察によるデモ隊への暴力で散らかった街並みを、自分たちの暮らすまちだから、と片付けるデモ参加者の若者たちの様子が印象的でした。
2019年、民主化を求めた香港の「圧殺現場」のすさまじい映像記録。一人称の語りゆえに普遍に届いている。今となっては、廃墟となった香港理工大学で、星条旗をまとう男の姿が悲しい。民主主義は「外」にはない。
『灰となっても』は、監督の落ち着いた語りと、2019年の激しい抗議の映像との対比が生む緊張感が非常に印象的な作品です。
その静けさは、抗議の終焉とともに日常へと押し戻された香港の人々の麻痺や心の傷を静かに浮かび上がらせます。
声高に語らずとも、言葉にならない感情が確かに伝わってくる、胸に深く残るドキュメンタリーです。